前回相続に関して書いた。相続が思わぬ争族にならぬように、話がしづらい死についてエンディングノートを利用してみてはというもの。その中で、価値観を共有したことは。
遺産が残ること
エンディングノートを利用して、終活を考えてみる。これまでを振り返り、今大切にしている事、大切にしている物をあらためて噛みしめ、そしてこれからを考える。この過程で資産整理を進めながら、必要であれば遺言書を作成するなどして、結果的に相続が思わぬ争族とならないようにする。当たり前だが、少額であっても遺産があることが前提となる。
終末期医療について
エンディングノートの中にいくつかの質問があり、その一つに延命治療を希望するか、しないかという項目があった。ここでの判断に、今の気持ちから想像して回答するという以外に、大切なポイントがある。費用である。遺産が十分でないなら、延命処置は遺族にとって大きな負担となり、残るものが少なくなるだけならまだしも、マイナスになる可能性すらあるだろう。
自分の意識がなくなり、終末期にもし医者が嫁に胃ろうをしますかと聞くようなことがあった場合、その必要はないとした。どこまで寿命が延びるかわからず、その間に費用が発生し続けることで、残せるものもなくなる可能性があるからだ。少しでも遺族が、安心して暮らせるようにと判断したことで、なんだか誇らしいようにも感じたのだが、裏を返せば遺産がそのレベルともいえる。
価値観の共有
同じことを大ちゃん(嫁のこと)にも聞いてみた。大ちゃんも即不要と答えた。同じように残される者の負担を念頭にしてかなと思ったら、胃ろうは食べ物を味わえない。それでは意味がないと。なんだ、残される私のことを配慮したのではなく、自分の楽しみを優先にしたのか。ただ、人生とは、おいしいものを味わうことだ、それが大切な価値観なのだなということはわかった。日頃の行動を見ていれば、確認するまでもなかったが。

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